書店のワーク

みなさんが書店に行くとずら~っと並んでいるのがこの2種類の問題集。どんなものでしょう。


(1)中学教科書ワーク ○○○版 △△△




 ○○○ △△△


(1)と(2)とはどちらがどうという比較でも順位でもないのであしからず。○○○にはみなさんがお使いの教科書の出版社名が入っています。そして△△△には国語や数学などの教科名が入っています。学校、学年、地区によって使っている教科書は違いますのでくれぐれも注意してください。わからない時は書店の方が教えてくれます。


(1)については国数英理社の5教科、(2)については9教科そろっています。


○○○に全教科書版と書いてあるときには、どの教科書にも対応しているよという意味です。開いてみると各教科書との対応ページなどが書いてあります。


さて、この両方のワークですが、少なくとも30年以上むかしからライバル関係のものです。ですからおたがいに切磋琢磨して今に至っています。良く改良されて使いやすくなってきています。


基本的に、いずれも教科書やノートをよく理解してから、その対応するページや単元のページを解いてみるといいです。感心するのは、解く際のヒントや解説のページです。これは家庭教師や塾の先生の代わりをしてくれます。ポイントになる解くための手がかりが書かれています。


そして解いたら、○を×をつけておしまい、というのではもったいないです。

どうすればよいかというと、間違ったり、時間がかかったり、カンで解いてたまたま当たったりした問題には、問題の左に印をつけておきます。


それをすぐにやり直すか、数日後にその問題だけやり直します。すると…教科書のポイントになるところがはっきりします。ここに注意すると、テストの時に解けるのかということが明確になります。これが「勉強の意味」です。


1教科1000円チョットで1年間使えるのですから、そう考えるとありがたい存在です。


(1)と(2)のどちらがいいかは、それぞれみなさんの好みの問題です。いずれも☆☆☆☆☆でほとんど優劣つけがたくその差はないと言っていいです。


なお書店によっては常時、実技教科などは置いていないところがありますので、注意してください。
ワーク

posted by あまがえる at 18:00Comment(0)入試

入試数学 円の接線ならば垂直

中3生は、平面図形のなかでも円が登場する問題を模試などで解き始めたことと思います。いつの間にこのような内容を習ったのだろうと思いますよね。そのわりに入試によく登場するところです。

DSCN3657.JPG

つまり、合同、相似、三平方の定理、円周角などとからめた総合問題としてよく出てきます。


このような問題のなかで円の接線が出てくることがあります。この接線を含む問題を解く上でよく使うコツがあります。


下の図のように「円に接線をひき…」と問題文中に出てきたら、それは「円の接線は接点を通る半径に垂直になる」と置き換えて理解してください。長いので短く「接線→半径と垂直」と直結させてしまいます。

無題.jpg

円に接線が現れた段階の図をじっとながめたまま考え込んでしまっているならば、さっそく「接線→半径と垂直」を使ってください。



posted by あまがえる at 20:00Comment(0)数学2,3

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posted by あまがえる at 17:00Comment(0)問合せ

武家政権の成立 

武家による鎌倉幕府の成立に関する問題です。

1.下から言葉を選んで(  )に入れよう。
(1)平清盛は、武士ではじめて( ① )大臣となりました。( ② )の港を整備し中国と貿易しました。貴族や寺社は平氏の政治に不満をもち、源頼朝が、( ➂ )とともに平家を滅ぼしました。

(2)その後、頼朝は義経と対立し、それを口実に国ごとに( ④ )、荘園・公領ごとに( ⑤ )を置き、義経は逃れていた奥州の( ⑥ )氏とともに滅ばされました。

(3)1192年、頼朝は,征夷大将軍に任じられ、鎌倉に( ⑦ )幕府を開きました。将軍は部下の( ⑧ )の領地を保護しました。これを(  ⑨ )といいます。一方、御家人は将軍に忠誠をちかい、( ⑩ )しました。

(4)頼朝の死後、御家人の( ⑪ )は将軍の力をうばい、自ら( ⑫ )の地位につき、政治を行いました。
   1221年、( ⑬ )上皇が起こした承久の乱ののち、幕府は京都に( ⑭ )が置かれ朝廷は監視されました。
  
選択肢: 太政 兵庫 源義経 守護 地頭 藤原 鎌倉 御家人 ご恩   奉公 北条時政 執権 後鳥羽 六波羅探題
 
答え:①太政 ②兵庫 ➂源義経 ④守護 ⑤地頭 ⑥藤原 ⑦鎌倉 ⑧御家人 ⑨ご恩 ⑩奉公 ⑪北条時政 ⑫執権 ⑬後鳥羽 ⑭六波羅探題

2.(  )に下から選んで適当な言葉を入れよう。
(1)保元・平治の乱に勝った平清盛は、のちに太政大臣となりました。兵庫の港を整備し中国と貿易しました。貴族や寺社は平氏の政治に不満をもち、( ① )が、源義経とともに平家を滅ぼしました。

(2)源頼朝は、義経と対立し、それを口実に国ごとに守護、荘園・公領ごとに地頭を置き、義経は逃れていた( ② )の藤原氏とともに滅ばされました。

(3)年、頼朝は,征夷大将軍に任じられ、( ➂ )に鎌倉幕府を開きました。将軍は部下の御家人の領地を保護しました。これをご恩といいます。一方、御家人は将軍に忠誠をちかい、奉公しました。

(4)頼朝の死後、御家人の北条時政は将軍の力をうばい、自ら執権の地位につき、政治を行いました。( ④ )年、後鳥羽上皇が起こした、( ⑤  )の乱ののち、幕府は京都に六波羅探題が置かれ( ⑥ )は監視されました。

選択肢: 源頼朝 奥州 1192 鎌倉  1121 承久 朝廷

答え: ①源頼朝 ②奥州 ➂1192 ④鎌倉 ⑤1121 ⑥承久 ⑦朝廷 

3.(  )に下から選んで適当な言葉を入れるか、問いに答えよう。
・ 平清盛らの平氏一族が政権につき、荘園を自らのものにしたところ、貴族や寺社の不満が増し各地の武士が兵を上げました。なかでも東国を支配していた(  ① )は弟の義経とともに、平氏を滅ぼしました。

(1)①に入れる適当なことばを選ぼう。 
   源義家 源頼朝 平清盛 藤原純友

(2)文中、伊豆の①とはべつに、木曽でそれぞれ反乱を起こした人物はだれですか。記号で選ぼう。
    ア)平将門  イ)平清盛  ウ)源義仲  エ)藤原純友

(3)下線部、平氏が滅んだのはどこですか。(  )   
    壇ノ浦  奥州  本能寺

(4)平清盛は関西のあるところに、港をつくり、中国と貿易をしました。どこでしょう。(  )
    ア)下田  イ)兵庫  ウ)博多  エ)長崎  
 
(5)義経は兄の頼朝と対立し、ある豪族のもとに逃れました。その豪族とはだれですか。またその豪族の本拠地はどこですか。
    豪族名:(  )  ア)藤原氏  イ)北条氏  ウ)足利氏  
    本拠地:(  )  ア)大阪   イ)平泉   ウ)鎌倉

答え(1)源頼朝(2)ウ (3)壇ノ浦 (4)イ (5)豪族:ア、本拠地:イ

4.つぎの問いに答えよう。
・征夷大将軍についた源頼朝は、(①)幕府を開き、②御家人に領地を与え保護しました。御家人は将軍に忠誠をちかいました。頼朝の死後(  )氏が実権を握りました。反乱を起こした後鳥羽上皇を抑え、朝廷を監視しました。

(1)①にあてはまる字句と、幕府が開かれた年号をあげよう。 
    ①(  )、年号

(2)下線部②をそれぞれ、何というか。(  )と(  ) 
 
(3)頼朝が国ごとにおいたもの、荘園・公領ごとにおいたものをそれぞれ何というか。(  )、(  )

(4)2行目下線部の反乱を何といいますか。(  )

答え(1)鎌倉幕府、1192 (2)御恩、奉公 (3)守護、地頭 (4)承久の乱

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中学総合的研究問題集 社会 改訂版
posted by あまがえる at 21:00Comment(0)歴史

最澄と空海 覚え方

平安時代の最澄と空海、このふたりの僧について混乱しやすいのでまとめました。少し難しめ(一部高校レベルを含みますので、そこは適宜省いてください)。


まずは最澄(伝教大師767-822)から

近江の国の生まれ

804年 唐に渡る 

805年 法華経中心の天台の教えを受け帰国 

比叡山延暦寺の建立・・・山岳仏教の開始  天台宗(台密) 

大乗戒壇の設置*(死後)・・・南都六宗から独立、日本仏教の中心に 

                   →それまで東大寺戒壇 

主著「顕戒論(けんかいろん)」「山家学生式(さんげがくしょうしき)」

特徴・・・中国天台に密教・禅・戒の要素を加えた日本独自のもの。

      法華経を最高権威とする。

後継者・・・円仁(えんにん):山門派(延暦寺)

       円珍(えんちん):寺門派(園城寺) 

      両者は対立し、この頃から密教の要素が加わる。


*)仏門に入る人はそれまで東大寺で仏の定めた戒律(守るべき定め)を受け(受戒)ていました。ここで鑑真(688?-763)から受戒を受けていました。聖武天皇も受戒を受けたとされています。


こうして出家して僧になろうとする人は、仏教の戒めや定めを学び、受戒を受けてお墨付きをもらわないといけなかったのです。


ところが最澄は独自の戒壇を設けることを主張し、やっと死後に認められました。浄土教の源信や鎌倉の新仏教の開祖たちもここで学びました。当然それまでの奈良を中心にした南都六宗の宗派からは反対されました。


そして空海(弘法大師、こうぼうだいし774-835

讃岐の国の生まれ

804年 唐に渡る 

806年 密教の奥義を究め帰国 

高野山金剛峯寺の建立・・・密教の中心  真言宗(東密)

東寺(教王護国寺)を嵯峨天皇から賜る

主著「三教指帰(さんごうしいき)」

特徴・・・秘密の呪法によって悟りを開くという密教。加持祈祷(かじきとう)で災いをさけ、現身のままで即身成仏(そくしんじょうぶつ)できると説く。→現世利益(げんぜりやく)の立場から、貴族たちの信仰を集める。


このふたりは遣唐使として同じ船に乗り唐に渡りました。最澄が37歳のときです。最澄のほうが7つ年上でした。のちに帰国後ふたりはそれぞれ密教の二大中心地を築いていきます。


真言宗のほうは真言密教として宮中などでも広く教えが広まり、国家密教としての地位が定まりました。また空海は身分に関係なく学ぶことのできた綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という学校を設立しました。


このふたり、遣唐使として乗った船も一緒ということからして志は似ていたわけで、ふたりの仲はどうだったのでしょう。興味深いですよね。さまざまネットや本にあるようですから夏休みの今、しらべてみてはどうですか。




posted by あまがえる at 21:00Comment(0)歴史