江戸時代の政治改革と飢饉

あと2~3週間ほどで1学期の学年末テストです。準備は進んでいるでしょうか。さて、今日は江戸時代の政治改革と飢饉についてです。


江戸時代には三大飢饉(ききん)といわれる大きな飢饉が起こっています。

享保の飢饉(1732

天明の飢饉(1783

天保の飢饉(1832

です。100年間の間にほぼ50年ごとに大飢饉があったことになります。このほかにも飢饉はありました。このうち天明の飢饉1783年の浅間山の噴火による気候の不順により、作物が被害を受けた大飢饉だったといわれています。飢饉はこの年から4年ほど続いたといわれています。


このうち二つの元号は皆さんもよくご存知の元号ですね。「享保の改革と天保の改革だね。」そうです。それぞれ徳川吉宗と水野忠邦による改革です。

享保の改革1716年~1745年の間

田沼の政治1772年~1786年の間

寛政の改革1787年~1793年の間

天保の改革1841年~1843年の間

です。各々の大飢饉はまさにこの改革のさなかに起ったことになります。


享保の改革の時には、それまで米のでき不出来によって年貢を決めていたのですが、過去の年貢の率を平均して課税するようになり、幕府の財政の安定をねらいました。


しかし、この結果4公6民だった租率が、5公5民担ったことから百姓の不満が高まり一揆が頻発しました。これに大飢饉が起ったのですからたまりません。一揆、打ちこわしが激化しました。ちなみに「公」は藩や幕府に納める分、「民」は農民に残る分です。


続いて田沼の政治のときには天明の飢饉が起こり、同じように一揆、打ちこわしが激化しました。そして田沼意次は失脚します。


寛政の改革ではこの飢饉からの復興を図ろうとします。飢饉に備えて囲米の制をつくります。農民の出稼ぎを禁止し村に返す政策も実行します。しかしこれらも一時的な復興に過ぎませんでした。本百姓は水のみ百姓へ、小作の貧農と富農地主に分かれる結果となります。


天保の改革でも、人返しの法といって都市への出稼ぎを禁止します。このことから水野忠邦は享保、寛政の改革を模範としようとしたことがわかります。農村の人口を維持しようという意図があったのです。しかしこの改革も失敗してしまいます。厳しすぎたことが原因とされています。



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